死を受け容れる気持ち

僕たち人間という存在は、
どうしても相手都合よりも、

自分都合で物事を考えがちです。

これは文化は違えど、
世界規模でも同じです。

例えば、そうですね。

環境問題の視点から言えば、
人間の立場からみた環境問題は、

地球の為にという大義名分をつけて、
色んな取り組みを行います。

地球温暖化を抑える為に、CO2の削減や
フロンガスを使わないなどなど。

でも、地球そのものから
環境問題を突き詰めていくと・・・

人間の人口を減らす事が、地球にとっては、
1番良い結論になります。

これらを人間である僕たちは、
「存在していたい自我」があるからこそ、

良くも悪くも地球のこと以上に、
人間が地球の中で生きていく為に、
色んな理由を生み出します。

これは良くも悪くも自我による
人間の考え方

これは命を見つめる前に、
人間が持つ今の自我の方が、
優先されるからなんです。

特に若い世代の方たちほど、
自分は死なないと思っています。

でも、まさか・・・は、
誰にでも突然訪れるものです。

そもそも僕たちは自分の事しか
コントロールが出来ません。

ただ、それでも自分自身を
コントロール出来ない時は、

何かの感情に支配されています。

もしくは、環境か相手のせいにして、
自分を認められないのかもしれません。

そんな中で、もしもですよ?

突然、自分が余命宣告を受けたら、
目の前にある景色は大きく変わりますよね?

例えば、今は3月ですから、
月末ぐらいから「桜」が咲き出します。

これまでは「桜の季節だな~」と思っていた
フワフワとした気持ちが、

突然の人生転換を受ける事で、
「この桜を来年も見れるだろうか?」と、
違った様に考えるかもしれません。

桜の木は何も変化していません。

変わったのは他の誰でもない
自分自身です。

僕たちは遅かれ早かれ、
必ず100%天に帰ります。

それなのに、なぜ自分は死なないと
誰もが思うのでしょうか?

この世に生まれた瞬間から、
誰もが死を約束されているのにです。

約束されている絶対条件なのに
受け容れていないのは、

死が来ると思えていないからです。

本来なら、車の運転1つでも
命がけなんです。

飛行機に乗るのも、新幹線に乗るのも
絶対安心ではないのですが、

絶対安心だと思い込んで、
僕たちは利用しています。

改めてそう考えてみると・・・

僕たちはどこかで死に対して
受け容れないといけない。

今からから受け容れるのか?
その時になってから受け容れるのか?

自分がどう捉えて、どう受け止めるかで、
毎日の過ごし方や生き方は変わります。

あんなに怒られていた人に対しても、
あんなに嫌いだった人に対しても、

もう2度と逢わないと分かっていたら、
そこまで思わなくても良かったかもなと、
許す事を考える様になります。

どちらかと言うと、そう思ってしまう
自分自身が許せない時もありますよね?

でも、それすらもパズルのピースの
1つとして死があるからこそ、
早めに受け容れた方が、

相手に執着せずに、自分の人生を謳歌出来ます。

先日、命の時間を読んでくださった
20代で末期がんになった女性の方から
色々と考えさせられるメールを頂きました。

この方はメールの中で、
こんな事を言われていました。
転載の許可は頂いています。

※途中は割愛

死を受け容れる覚悟を持つこと

私も最初は「死にたくない」と思いました。
私が何をしたんだ?と恨めしくも感じました。

でも、松野さんが書かれていた通り、
はたしてがんは本当に悪者なのか?

そこに留まってくれているからこそ、
他の臓器は生きていると思えたら、

今こそ変われと教えてくれているのだと、
この言葉に救われた気がします。

よくよく時代を遡って考えてみると、
私より早く亡くなった人なんて、

昔の時代を生きた人ならば、
戦時中に生まれていたのならば、
選択する事も出来なかっただろうなと・・・

この時代に生きたからこそ、
私は選択が出来ています。

色々とこれまでは考えて来なかった
新しい考え方と向き合ってみると、

全部が有難い事ばっかりだったなって、
優しい気持ちに包まれ出しました。

次にずっと休まずに動いてくれている
心臓に対して感謝が出てきました。

そんな中で、今の私は仕事もやめて、
本当に好きな事だけをやる為に、

好きな時間に寝て、好きな時間に起きて、
自分の為だけにワガママな時間として
人生を使えるかもしれない。

これまで湧き出た事がないぐらいの情熱で、
好きな事だけに打ち込めるかもしれないと、

何か変な感じですが、前向きになれたのです。

更に思考がポジティブになっていきまして、
自分の身体に起きた出来事を通じて、

将来の不安、老後の不安もなくなり、
お金の心配からも解放されると考えたら、

末期がんになった事に意味をつけるのは、
私しかいないと前を向けたんです。

自分の人生における1つの出来事として、
ちゃんと受け止めようと・・・

小児がんになる子だって大勢いる世の中です。

私は社会人として、子供たちの勇気になりたい。
アンパンマンの様になりたい。

私を通じて出来る事をしたいとさえ、
がんを悪者にしないという考え方から
私は大きく変化した気がします。

自分の終わり方は、自分で決めて
精一杯生きる事の大切さを知る為に、

そして、それを家族に伝える為に、
みんなへ残す為に、

私という存在がこの世にあったのなら
死ぬのは怖くないかも・・・

でも、この気持ちを親に伝えておかないと、
まだ親孝行が出来ていないから、

残される人の事を思うと、自分以上に
生きている間は辛く感じるだろうから、

早い内に自分の中で辿り着いた
前向きな気持ちを伝えておけば、

少しは親も周りも、悲しみや辛さから解放されて、
その時までの時間を学びとして、

良き思い出として、
共有出来るかもしれない。

ただ、私がここにいたという証だけは、
好きな事を一生懸命やって残したいと、

私は私を受け容れる事にしたのです。

私が世界で一人だったら、
もっと楽に受け容れていたと思う。

これが二人称となっていくと
とても悲しくなるのだけど、

三人称の中で関わり合いがないと、
あまり悲しくならないのが人間。

だから私なりに考えてみたんです。

私自身が居なくなる事の辛さや
悲しさの裏には、

残される人たちの辛さや悲しさが
表裏一体にあるからなんだって・・・

私が死にたくないと思ったのは、
自分がやりたい事があるとかよりも、
大切な人と関われなくなるからなんだと・・・

でも、だからこそ今を受け止めて、
死を受け容れる様にすれば、

相手とも笑い合いながら過ごせるし、
嘆くのはもったいないって思えたんです。

自分が天国に行っても、大切な人たちに、
ずっと悲しい顔でいてもらいたくありません。
ただ、忘れないで欲しいなとは思います。

自分自身の将来の不安や老後の不安は、
ある程度は予想された余命の中で、
死が來る事でなくなるけど、

残された人はそうはいきません。

だからこそ、残された時間を、
一生懸命生きて後悔を減らしたい。

遅かれ早かれ、誰でも死は来る事を、
自分自身がちゃんと理解をして、
毎日と向き合えば、

人間の誰もが、自分にも、
そして相手に対しても、

今以上に穏やかになれて、
いつも優しくいれるのかもしれません。

松野さんのお母さまが仰られた
死から生を見るという考え方は、
本当に良く分かります。

生から死を見ていたら、若い時ほど
まだまだ先があると思い込みます。

でも、私の様に「死」と向き合う日が
突然訪れる事を知った上で、

私たちは今日を生きていかないと、
それは突然起こるものだから、
後悔が多く残る気がします。

何か支離滅裂になりましたが、
松野さんがお母さまと過ごされた時間は、
本当に財産だと思います。

松野さんが強く生きれる為に、
松野さんの心が折れない様に、

きっと色んな事を見越してお母さまは、
松野さんに託したい想いがあったのだと
本を読ませてもらって思いました。

私の分まで命の時間の大切さを、
これからも伝えていってください。
影ながら応援しています。