信用と信頼の違い

基本的に「信用」は実績を重ねていくことで積み上がります。

仕事を例にすると納期を守る・約束を守るなどから
比較的、短期間で積み上がっていきます。

しかし・・・

本当の意味での信頼は簡単に積み上がりません。

もちろん、信用の積み重ねから、
信頼になることもあるのですが、

大半は仕事上などの条件が付いた上での話です。

本当の信頼は、普段から目に見えない部分、
目配り、気配り、思いやり、

人が面倒だと思う事と真摯向き合い、
自分の徳を人の為に積み重ねていかない限り、
目には見えませんが絶対に増えていきません。

なぜそう強く言えるかというと・・・
僕は大手中の大手の企業に2社勤めて
これらを痛感してきたからです。

「〇〇の松野です」と言った時、
仕事として近づいてくださる方と、

自分の名前だけの「松野です」と言った時に
近づいてくれる方は全く違うということです。

僕がお伝えしたいのは、アフターコロナの世の中だからこそ、
「自分の名前だけで生きていける準備」を、
日頃からきちんとしていくことが、

本当の意味で必要になってしまったという事実です。

相手との約束以上に自分との約束が守れる人へ

例えば、仕事だけではなく、自分のその日の気分や
家族や友人との大切な約束事をすぐに破ったり、

自分の都合や欲の為に、何度も未来の自分に対して
決めた事を裏切る行為を、

現実の中で繰り返していけば、最後の最後に苦労をするのは、
信用と信頼を生み出すことが出来なかった自分自身です。

それが自分の中での因果応報となって、
必ず自分の人生を通じて返ってきます。

身近な人も、周りも、天にいる先祖さまも
「普段のあなたの生き方や生き様」を見ています。

仕事の時は、習い事の時は、学校にいる時は、
出来ているのだけど・・・ではないのです。

あくまでそれは、仕事や学校という条件が付いた
表面上の信用においてが大半なんです。

全ては私生活の中で積み上げたものが
毎日を「生きる姿勢」として、

必ずどこかで無意識に出ているので、
その積み重ねが結果として、

いざという時の信頼には繋がらないのが
世の中の仕組みなんです。

なぜ多くの方がそうなってしまうのかと言うと、
それは誰もが「自分だけ」を切り取って
物事を考えて生きているからであり、

何より自分の成長の為に用意されている
目の前の面倒な事と向き合う事から
逃げる事が癖になってしまって、

自分自身の心で気づけない器(考え方)に
これまでの人生経験で思い込んでいる
傾向が強いからです。

誰もが普段の私生活の中で、何かしらの
取捨選択をしながら一日を過ごしています。

何の悪気もなく、自分が決めたことや、
人生の先輩たちから教えられた大切な事を
自分の私生活の中で平気で果たさない事に
余りにも慣れ過ぎてしまうと、

それは・・・

未来の自分を裏切っている事と同じなのです。

「自分だけの人生」ならばそれでもいいのかもしれません。
しかし僕たちは、周りによって生かされて生きています。

自分が決めた約束、親との約束、仕事での約束の先に
条件が付いた信用があって、私生活の生き方があって、
その積み重ねの先にはじめて信頼があります。

普段から自分にとっての当たり前が低すぎると、
一つ一つの物事を、自分勝手なフィルターを通して
判断していくことになります。

例えば、部屋を片付けないこと、自転車が倒れていても
見て見ぬ振りをしたりすることなどなど、

こういう行為は天国にいるあなたの先祖さんたちが
ずっと空から見ています。

隠し事が出来るのはこの世にいる時だけです。

あの世に行けば隠し事は全てバレるのです。
本当に大切なのは、何をするにしても、

周りから「あなただったら大丈夫」と信頼のある
生き方に、毎日の積み重ねを通じて転換することです。

いざという時に必要になるのは、
条件が付いた実績を積み重ねた信用よりも、

人として大切な人のために、愛する人のために、
まだ見ぬ誰かのために、自分の生き方を通じて、
日頃から徳を積み重ねてきた信頼の数です。

それが自分の名前で生きるということ

あなたのためなら、あなたが困っているのならと、
有無を言わずに動いてくれる人が、

親以外にあなたには何人いますか? 
どれだけ自分の「信頼残高」を普段から貯めて、
残しておくかで、未来の人生は自ずと決まっていきます。

ただ、信用されたら成功するとか、成功したいから
信頼を積み重ねていくという定義ではなく、

根元にないといけないのは大切な人の為にという
「利他精神」で生きる価値ある人間を目指していくこと

しかし、成長のために与えてもらう事や得ることばかりを考えて、
求めるばかりではやっぱり成長しないのです。

人に与えながら得ようとしなければ先の成長はありません。

その為に出来る事は何も難しくありません。
自分に出来ることを一つずつ増やし、

当たり前の基準を上げていきながら、
あなたにとって大切な人たちや、

お世話になっている人の為に
自分の人生を丁寧に生きていくだけです。

周りのためにも、自分の価値を自らの意志や、
行動の中で絶対に下げてはいけません。

なぜなら自分で勝手に下げた分だけ、
親の価値も、親友や知人の価値も下がります。

今は著者の一人としてこの様に大切な部分を
お伝えしている立場ではありますが、

昔の僕は完全に自分だけを切り取って生きていました。

うちは家が貧しい方でして、父はサラリーマンだったのですが、
サラリーマン40年の中で18回も仕事を変わりました。

母は極度の人見知りで、外で働く選択が出来ず
家で出来る内職だったんです。

二人合わせても月18万円がやっとの現状です。
これでは家族三人ならギリギリの生活です。

なので、僕はサラリーマンになってからの
15年間は給料の全てを家に入れ続けてきました。

自分の通帳も全部渡して、仕事が終わってから、
副業をしながら勉強を繰り返して、

自分の小遣いをどうにか生み出すしかありませんでした。

こういう家庭環境だったからこそ、気づ事が出来ず
自分だけを切り取って生きてきたのだと思います。

親から見えない部分も含めて育ててもらった感謝の前に、
僕が「自分の人生を犠牲にしているからこそ、
生活が出来ているんでしょ?」という気持ちが
とても強かったのだと思います。

こういう倫理観や価値観が消えなかったからこそ、
亡くなった母がずっと伝え続けてくれたんです。

自分だけを切り取ったまま生きてはいけないと・・・

もちろん最初は分かりませんでしたが、
母が伝えてくれていたことと同じことを、
人生の恩人たちが僕に教えてくれて、

日常の中で自分が実践をしてやっと痛感しました。

自分の事を色々とと考えながら生きていけるのは、
親や家族が元気だから、自分が大切だと思う人たちが
元気に生きているからこそ、

自分の夢や、プライベートをはじめ、仕事の悩み、
恋愛などを考えられる時間として使う事が出来るのだからと・・・

つまり「どうしようか?」「どうしていくべきか?」と
自分軸で考えながら生きていけること自体が、

自分にとって本当に幸せなことだし、
だから常に感謝を根元に置いた上で
行動し続けるべきだよと母から学びました。

自分だけを切り取ったままで人生を生きてしまうと、
僕のように青天の霹靂みたいな出来事に遭遇した時に、
心の準備が追い付かなくなります。

介護などの現実を受け止める覚悟に対して、
迷いやとまどいが出てしまい、喪失感や
絶望感に呑み込まれてしまうよと・・・

そうなると他人がうまくいっている人生に怒りを感じたり、
妬ねたみや僻みが自分の中で起こりやすくなってしまうから、

歪んだ考えの中で自分の大切な人生を、
ずっと生きていかないといけなくなってしまうと・・・

自分の人生を生きるのは、人間として当然の権利だけど、
周りが元気でいるから、そして常に支えてもらえているから、

自分の人生なんだということを大人になるほど
絶対に忘れてはいけないと教えてくれたのです。

今ならこの意味が痛いほど分かります。

もっと母の目を見ていつも「ありがとう」と
心の底から伝えたいのですが、

偉大なる母はもうこの世にはいません。

だからこそ、せめて天から母が笑ってくれるような生き方を、
いつも心がけながら僕は目の前の今日と向き合い、
自分の役割を果たす為に仕事をしています。

ただ、こういう風に今あなたに伝えても、
恩を返したい気持ちはあるけれど、

親のことが尊敬できないとか、恩返しをしたい友達や
人生の先輩たちと出逢えていないと思う方も、

中にはいるかもしれませんが、そうじゃありません。

親や先輩、環境がどうこうではなく、
これまで長い時間をかけて巡りに巡って、
先祖から紡がれてきたあなた自身の命を
あなたが無駄にしてはいけないし、

何より自分の生き方(生活方法)と生き様(行動)で、
世の中に対して証明すればいいのです。

そうすれば少なくとも、天国にいるご先祖さんの想いや
願いを裏切ることにはなりません。

これから自分の信頼残高を増やしていく為にも、
誰にでもある「過去の清算」を自分の生き方を通じて
早めに終わらせておく必要があります。

それが自分の名前で生きることに繋がります。