自分が置き去りにした因果

今日は因果について、著者の観点をはじめ、
メンタル心理、メンタルコーチの資格取得者の観点から
僕なりに定義をしていきたいと思います。

因果応報という言葉がありますよね?

悪い事をすれば、悪い事が返ってきて、
良い事をすれば、良い事が返ってくる。
簡単に言うと、こんな感じです。

ここで重要なのは因果となる原因を、
置き去りにしたままでは、

本当の意味で人としての成長はないこと。
誰しもが原因を作った張本人である時があります。

その跳ね返りを、生きている時間の中で、
何かしらの出来事を通じて戻りがきます。

僕は著者として、読者の方にも、クライアントさんにも
過去の清算を出来る限りしていきましょうと
良くお伝えをするのですが、

他の記事でもお伝えしている通り、
人生の主語を相手ではなく自分にしないと、
人は成長できません。

人生の「主語」を自分にして相手の事を考えて行動する大切さとは?

もっと、こういう風に伝えるべきだったな?
あの時は、こういう行動だったよな?とか、
あとから気づける事ってありますよね?

これらをケセラセラ精神で乗り越えようとすると、
生き辛さを感じやすくなる傾向が出てきます。

もちろん、原因となった瞬間を取り戻す事は
二度と出来ません。

だからこそ、同じ失敗や過ちをしない様に、
次に繋げましょうと巷では言われますよね?
もちろん、それが間違いとは言いません。

ここで大切なのは「過程」です。
つまり、生き方を指します。

因果って溜まっていくものなので、
たとえ、人とのコミュニケーションが
うまくいっているとしても、

他の部分。例えば車の運転中に信号無視をしたり、
歩きながらたばこのポイ捨てをしたり、ツバを吐いたり、
ゴミの片づけをしなかったり、立ち小便をしたり、

こういう社会で生きる上での
当たり前を無視した状態だと、
因果が溜まっていきます。

それがいつかどこかで爆発して、
自分にとって予想も出来ない出来事として、
自分に返ってくる事が多いです。

で、自分の因果だけならまだしも
それが家族に向けられる事もあります。

だからこそ、過去の清算が生き方として、
僕たちには必要なんです。

つまり、当たり前の基準を高くすることで、
過去の清算は1つずつ処理する事が出来るのです。

たばこのポイ捨てをするのが当たり前の人と、
それをしないのが当たり前の人。むしろ拾う人。
どちらの方が因果が残ると思いますか?

当然ながらたばこのポイ捨てをするのが
自分の中で当たり前になっている人ですよね?
これってなぜだと思いますか?

答えは簡単。人知れず誰かがあなたの変わりに
たばこを拾って処理しているからです。
他の出来事も同じです。

全く知らない誰かが、あなたの代わりに
因果となる部分を処理してくれているということ。

こういう小さな事を置き去りにした状態で、
何かいい出来事がないかな~と思っても、

当たり前の基準が低いと、因果が溜まるだけなので、
それがゼロの状態(フラット)になるまでは、
自分の人生が良い方向へ転機しにくいのです。

こういう当たり前の事をしない中で
人生がうまくいく事を望んでも、
その未来はやってこないのです。

僕たちは、全て他力のお陰で生かされています。

だからこそ、自分が出来る範囲でいいので
自分の中にある当たり前の基準を高くする事です。

僕たちは自分が起こした全ての因果に
残念ながら気づく事が出来ません。

全てに気づく事が出来ないからこそ、
自分の人生を丁寧に歩かないといけません。

社会のルールを守る事はもちろんですし、
ちょっとした譲り合いや思いやりを増やしたり、
ゴミが落ちていたら出来る限り拾ってあげたなど、

大切なのは、これまでの自分だったら
おそらくやらなかっただろうという所から
1歩ずつ精進をしていく事からなのです。

当たり前の基準を高くすること。
まずは誰もがココからリスタートなのです。